こんにちは。大島ミマです。
私のボキャブラリーではでは、どうもうまく表現できないジレンマ。
昨日のブログで「神の隣在」と書きましたが、
判断をしなくてはならないときは、しばらく静かにその問題に向き合っていると
「ああこれでいいんだ」という答えがふっとやってくるのはなぜ?
それがあまりにもこれ以上はないと確信できるし、
時がたっても少しのブレもないのはなぜ?
そして、恐怖、不安が一瞬ちらついても、次の瞬間には霧散するのはなぜ?
むかし、むかし、エゴの塊だった時は、
すべての判断に自信がなく、一歩が踏み出せなかったのに。
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いつものように、お風呂に本を持ち込んで読んでいると
まるで与えられたように、ありましたよ~。ぴったしの表現が。
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ニール・ドナルド・ウォルシュ「新しき啓示」P44から
以下に抜粋します。
神を信じていようが、どちらでもよい。
誰でも、生命/人生は信じている。
生命/人生に関する人びとの集団的な信念は、
神についての集団的な信念を強く反映していることが、そのうちわかるだろう。
これから話すことをきけば、それが理解できるはずだ。
なかには受け入れられないと思う人もいるだろうが。
とおっしゃいますと?
神と生命は同じものだということだよ。
べつの名前で呼んでも構わないが、同じものなのだ。
神は生命であり、生命は神なのだよ。神はあなたが生命と呼ぶエネルギーであり、
生命はあなたがたが神と呼ぶエネルギーだ。
みんな同じものだ。
生命は物質化した神なのだ。
では、生命を信じるということは、神を信じることだとおっしゃるんですか?
そう。
神を生命から引き離すことはできないし、生命を神から引き離すこともできない。
生命は信じるが、神は信じないというのはかまわないが、
それは脳は信じるが精神は信じないというのと同じだ。
脳は見ることも触れることもできるから、そこにあるとわかる。
精神は見ることも触れることもできないから、
それが何なのか、存在するのがしないのか、確信できない。
脳は物質化した精神だよ。だが、脳について考えることを可能にしているのは精神だ。
精神がなければ脳は存在することさえ分からないだろう。
神と生命/人生も同じだよ。